河北新報のペンの暴力記事は、
環境活動とボランティアへの最大の敵である
 4月30日付けで、このページを改訂したあと、5/3にもペンの暴力記事が掲載されて、関係者の多くが傷ついたことを、当の河北新報は全く気づくことはない。報道、マスコミは何をやってもかまわないと、思い込んでいるフシがあるが、それこそ、ペンの横暴以外の何者でもない。しかも、思い込みや明らかに間違ったことを平然と書いているところが恐ろしい。
 ここで河北新報を非難したら同じ穴の狢となってしまうし、意味がないので、何が間違っているのか、を書いておく。このままでは、エコシティ仙台のためにこれまでがんばってきた、多くの仲間たちの苦労が水の泡となってしまう。ボランティア組織の崩壊でも大事(おおごと)だが、それ以上の危機が待っていよう。
 最初に、<分ける意味ない>とある見出しが、そもそも最大の間違いである。分別されたものが全部が全部リサイクルにまわるのは理想であるが、その一部、あるいは大部分がリサイクルにまわらなくても<分ける意味ない>ことはない。紙コップがたとえ焼却処分されていたとしても、その分別の過程で分けられたPET、割り箸、きれいな紙がリサイクルされていれば非常に大きな価値があるし、それ以上の目的があるのである。
 3プロスポーツのゴミの分別は、元々仙台市民、宮城県民へのゴミ分別の啓蒙活動である。非日常に身を置く、スポーツ観戦においても、なお、ゴミの分別を行うことの意義は、帰ってから家庭や職場、社会にでたときに、ゴミ分別への理解と協力を得るため、にあり、そのための、伏線として、また教育と実践の場として、それぞれのプロスポーツのエコステーションが、その役割を演じているのである。
 この意義を全く理解しないで、<分ける意味ない>と平然と書く、その無能さ、馬鹿さ加減にはうんざりだ。平然とそれを読者に押しつける、ペンの暴力は、ひどいとしか言いようがない。では、分別をやめろ、というのか。元の木阿弥にするのが、暴力記事の目的なのか。万一そうだとしたら、地球の敵である。きっと、この記事を書いた記者は宇宙の彼方からきた宇宙人なのであろう。地球壊滅を目的としているのかもしれない。ジョーンズもびっくりだ。
 さらに、「しかも、紙ごみや紙コップ、プラスチックごみは再利用可能で、減量化にも反している。」と、3Rである、Reduce, Reuse, Recycleを完全にごちゃまぜにした表現を使って、その無能さをひけらかしている。紙ゴミをそのまま再利用(Reuse)する馬鹿はどこにもいないし、紙コップの再利用は汚いだけで、通常はリサイクルにかける。リサイクルと減量化は全く別の概念であり、厳密に言うと、リサイクルがかかれば全て減量化に結びつくわけではない。リサイクルのために、より大きなエネルギーがかかるとすれば、全く本末転倒な話なのである。
 たとえば、紙コップリサイクルのために、それを燃やすときに発生する量以上のCO2を発生するような量の石油を使って、輸送するとしたら、阿呆である。加えて、89ERSのゴミの量はゴミ袋6〜7袋に過ぎず、家庭ゴミに毛の生えた程度であり、それを事業ゴミとして分別処分するときには、大きなエネルギーがかかる。エネルギーのかからない、割り箸、段ボール、きれいな紙の一部のみを、まずはリサイクルにかけるのは、自然な流れで、分別されたものをすべてリサイクルにまわすのがかえって環境負荷につながる場合を避ける手法といえないか。物事の一面だけを見て、それがいけない、これはOKと書く、阿呆な記事には辟易だ。
  ともかく、こんな状況を十把一絡げで考えて、一刀両断に、善悪を切り分けるのが阿呆である。ものの考え方見方はそう簡単には分別できない。

  この暴力記事のおかげで、きちんと分別をしている楽天イーグルスの試合にも疑惑の目がおきてる現実がある。実際に、観客の中にはボランティアに分別の疑義を唱える人がでてきた。迷惑千万な話である。この馬鹿記者は、どう責任をとるのか。
  それ以前に、89ERSにしても、段ボール、紙の一部、割り箸は少なくともリサイクルに回っているのに、それを全面否定しているように見える記事の書き方は、2003年からMELON(みやぎ・環境とくらし・ネットワーク)が取り組んできた、エコシティ仙台の確立への重大な妨害といえる。
  さらに、ボランティア組織への妨害も重大である。
  ベガルタ仙台、仙台89ERS、楽天イーグルスの、各エコステーションで活動するボランティアはサポーターやブースターの一部からその自発的行動で名乗りをあげてきた人たち。ゆえに、ボランティアとして活動していないときはそのまま観客=サポーターやブースターとなっているが、この暴力記事では、そうした人たちを一義的に会社がわの人間ととらえている(記事の写真に写っているのは全てボランティアだ)。
  ボランティアに責任はないはずだが、その責任を負わせようと意図するような、暴力記事はひどすぎるとしか言いようがない。
  この記事を書いたもの、あるいは載せた責任者、デスクも含めて、全員が一度、エコステーションでボランティア活動をすべきである。さすれば、いかに馬鹿なやつでも理解できよう。強気をくじき弱気を助けるはずの新聞社が、こうした弱い者いじめをし、それ以前に、環境活動への最大の妨害をしておくというのは、前代未聞であり、とうてい許すことはできない。

(下記は、4/30付で、本ページに掲載したもの)
 間違った認識に基づいた、勝手な記事が、どれほど、他人を傷つけるのか、わかっているのか、ということである。
 明らかに間違えている、ゴミの分別と、その啓蒙活動を続ける、ボランティアの人を鋭く傷つけている、ペンの暴力は、ひどすぎるというしかない。
 http://www.kahoku.co.jp/spe/spe174/20080424_04.htm
 この記事には、だまされたとされる観客と、MELON(みやぎ・環境とくらし・ネットワーク)と、仙台スポーツリンク(運営会社)と、仙台市体育館あるいは青葉体育館しか登場しないが、写真に写っているのは、まさに、ボランティアなのである。
 記事によると「体育館には試合当日(1)チラシなど紙ごみ(2)菓子袋などプラスチックごみ(3)紙コップ(4)弁当箱などその他のごみ(5)ペットボトル(6)割りばし―の6種の回収袋が備えられ、観客に分別を促している。」
 とある。観客に分別を促しているのは、まさにボランティアなのである。
 では、彼らボランティアは、観客をだまして、ゴミの分別をさせたのだろうか。
 当然、NOである。
 しからば、何のためにゴミの分別をし、結果一緒になってしまうゴミの行き先を、どのようにボランティアは考えているのだろう。その辺の深いところを是非とも考えてもらいたい。
 つづいて、ベガルタ仙台の記事である
 http://www.kahoku.co.jp/spe/spe106/news_spe/news20080429_003.htm
 記事によると『紙コップを可燃ごみとして排出していることは、観客から聞かれれば答えている」と話している。』とあるが、応えているのは誰であろうか。当然、エコステーションを担当する、ボランティアなのである。
 89ERSの試合、ベガルタ仙台の試合、ともに、運営に多く携わり、ゴミの分別回収、あるいは試合後のスタジアムや体育館の清掃活動をするのは、もっぱらボランティアである。
 そのボランティアがけしからん!という誤解を生む、記事であり、それ以前、ボランティア自身の自発的なエコ活動を全面的に阻害している。いや、妨害しているといってよいのだ。
 これがペンの暴力でなくして、何がペンの暴力なのだ。
 私はゴミの分別の本質をこのように考えている。すなわち、
私が直接携わっているプロジェクトは、エコシティ仙台プロデュースプロジェクト、と、銘打っているように、本プロジェクトの最終目標は、仙台市(できれば周辺も含めて)が世界一のエコシティになること、である。
 ユアスタ仙台、Kスタ宮城、仙台市体育館・青葉区体育館はそうしたエコシティを具現化するためのものでもある。
 その最終目標があるからこそ、どこに行っても同じ分別方法で、ゴミを分別していただき、環境への関心の高揚と実践活動を、市民・県民に味わっていただくためにやっているのだ。
 乱暴に言えば、紙コップを一緒に焼却していたからけしからん、などというレベルの低い話ではなく、ゴミとなっていったん散らばってしまったものを、人間の手で元の意味のある物の集まりにもどして、必要であれば、それを再利用し、必要であればそれらを加工し、あるいは場合によっては何らかのものに変身させる、というような、物の本質にのっとった、活動であって、それは決して、たかがゴミの始末、という問題ではない。
 物理化学という学問分野で言えば、エントロピー増大による拡散されたエネルギーを人間の手で集約化し、再利用できる形に戻す、という、エネルギー資源的にきわめて重要なことを実践しているわけだ。
 人間の長い歴史の中で、今の今までは、消費とその増大というベクトルだったが、それを180°変えて、物質を元の状態に戻す努力を、“誰もができることからする”ということこそが、本プロジェクトの神髄なのだ。
 やれゴミの有料化がけしからん、分別したものを一緒に葬るのがけしからん、という、単に目の前に起こっていることだけをとらえていては、これまでのCO2削減のかけ声と本質的な同じか、あるいはもっとレベルの低い話であり、そうではない、ものの本質の部分を、市民・県民がきちんと考えるための端緒にしないと、意味がない。
 昔子どもの頃、母親から「絵を描きおわったら、ちゃんとクレヨンしまいなさい」というようなことをきっと言われたことだろう。単にそういうことができる人が1000人、2000人、10000人、20000人集まったら、ゴミをきちんと利用できる形に変えることができたんだ!ということこそが、本プロジェクトの本質なのだ。
 繰り返しになります。
 分別されたものが100%利用されることは、最善の策ではあるが、リサイクル品の輸送・変換・品質保証費用や、そのために費やされる資源・エネルギー量を、大きな視野で見て、総合的に判断されるべきものなのだ。
 つまり、最も重要なことは、
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ゴミは分別されなければ、ただのゴミ
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ということなのだ。
 このことを、河北新報の記者は気づいてもらいたい。