五輪、東京落選・・・
 4都市で争われた、2016年の五輪開催都市にリオデジャネイロが選ばれ、東京は落選してしまった。
 オリンピック招致委員会のHPでは「史上最もコンパクトで環境にやさしいオリンピック」とあり、また、知的障がい者、身体障がい者のパラオリンピックを意識して、最初からオリンピック・パラリンピックという表現にするなど、他の都市との違いを際だたせてきた。また、「東京がオリンピック・パラリンピック競技大会の開催を望む理由は、大会が、東京、そして日本のターニング・ポイントを導く重要な触媒としての役割を果たすことを確信するからである。」とある。
 「環境」というキーワードが、スポーツとは何となく相容れない感じを抱く、その先に「東京五輪」はあったような気がする。落選した理由は種々あろうが、
「環境、人、スポーツ、都市」という東京五輪招致のキーワードの中で、「いま、なぜ東京で?」という素直な疑問に対する的確な回答ができなかったのが最大の敗因理由と思われる。FAQで招致委員会は「東京は1964年にオリンピックを開催し、大成功を収めました。その当時に建設された日本武道館や国立代々木競技場などは改修を施し、今大会でも使用していきます。こうした既存インフラを活用できることや、ホテルなど宿泊施設が充実していること、海外からのアクセスが容易なことなどの様々な要因から、東京が最も、余分な経費をかけず、効率的に開催できる都市と言えます。その結果、大会に向けて新設する施設は、31会場のうちオリンピックスタジアムなどわずか5会場に抑えることができます。」と説明している。それなら、恒に1都市で開催すべき、というアテネの主張に似てはいないか。なぜ、オリンピックが世界各地を回っていくのか、という意義を考慮に入れて、「いま、なぜ東京で?」という理由を説明せねばならなかった。
 ここに最大の失敗があるのだ。
 日本が「環境先進国」と言われたのはすでに過去であり、そんな幻想は昔のことである。さらに、先進国としてCO2発生量を減らせず、京都議定書の年から、かえって多量に出し、きわめて優雅な生活を送る、日本をはじめ、欧米諸国が「環境、環境」と騒ぐのは、多くの国にとって、ちゃんちゃらおかしく見える。
 敢えて言えば、東京が環境で世界に訴えるのは、自己矛盾でしかない。
これから人類は環境とどうつきあい、そしてスポーツという文化を育んでいくのか、というメッセージは、単にCO2削減を目指した、目先の取り組みで誤魔化すことで訴えることはできない。高齢化社会を念頭に置いた、生涯スポーツ文化の醸成と、環境を、オリンピックを通して真摯に考える方法は、そうではない。
 オリンピック運営方法の根本を変え、それでいて、世界の子どもたちにスポーツのすばらしさ、する、みる、ささえる、かたる、スポーツを進展させるオリンピックの精神をきちんと伝えるべき、五輪開催を目指すべきである。
 時代はいろんな距離を短くさせ、すでに都市が基本単位ではなくなってきている。
 あらゆる種目のスポーツ競技が狭い面積の中で実施される必要が、果たしてあるのか。距離的な短さではなく、感覚的な短さがあれば、オリンピックはどこでも開催できる、そんな新しい五輪運営を、日本なりに提案して、新たな第一歩を踏み出すことが、肥大化した五輪に必要なことのように思える。
 もちろん、東京五輪招致に尽力した多くの人々の努力は決して無駄ではない。
 また、福岡、大阪、名古屋で五輪招致に関わった多くの人の、汗と涙も無駄ではない。
 日本人が、いま、どんなオリンピックを、「したいのか」「みたいのか」「ささえたいのか」、そして「かたりたいのか」、改めて考えるときが来たのだ。