京大という大権力 〜カンニングにより犯罪者の烙印〜
 カンニングをするのは卑怯だ,絶対に許さない.当たり前の話である.
 ただ,カンニングをした行為は許さないが,その人をどうするかは,別の問題である.大学という教育機関がその使命を捨てて,他の権力にその処分や更生の機会を委ねるというのは,どうだろうか.
 かつて大学の自治という概念があった.
 大学の自治とは,大学の所属する人の人事,施設や人の管理があたり,さらに研究教育の内容と方法や予算管理における自治がある.特に警察との関係は,たとえば東大に対する元富士署の配置に見られるように,敵対とは言わないまでも,独立性が高いものと判断されてきた.通常,警察権力に大学当局が頼る場合は,自分たちでは収拾がつかないほどの不法行為に対する場合のみと限定されていたはずだ.
 今回,京大入試において,携帯電話とネットを使ったカンニング犯罪に対して,ほとんど何の議論も調査も行わないまま,警察権力にその判断を委ねたのは,果たして正しかったのか.その答えは明白である.
 「否」
 大学の自治を捨ててまで解決すべき問題ではなかったはずだ.
 まさしく,京大は大学の自治を捨て,警察と結託したのである.
 京大だけを責められない,と言われるが,馬鹿なマスコミのアジテーターたちに乗っかり,一人の人間を更生させる機会を自分で放棄するのが,大学人としてどうか,という点で見る限り,正直に「京大も地に落ちたな」と思う.
 マスコミについては「連日のように1面を使うクレージーさに怒りを覚える」というコメントもあったことと同じ違和感を覚え,リビアなどアラブの各国に比べて,日本は平和ボケだ,という脱力感を覚えている.いまさら,ではあるが.マスコミは大権力の一つであることは間違いなく,また始末に負えないアジテーターでもある.
 最初にこぞって「入試問題漏えい」と伝え,組織的犯罪をにおわせるような記事やコメントも相次いだ.確かにそうかもしれないが,毎日新聞が1980年に報じた,早稲田大学商学部入試の漏えい事件とは根本的に質が異なるものであることは当初から明白であったはずだ.
 入試時間中での,質問サイトへの投稿.
 それだけの話だ.漏えい結果が最初に公表された,という部分に驚いただけで,どうやって漏えいしたのか,という推理に,全マスコミが自己陶酔したに過ぎない.それにネットがかかわり,ネットの闇的なものを自分本位に関連付けて,マスコミに都合の良い「悪者像」を作っていったわけだ.
 それに京大はのっかったのである.
 本当に彼はそんなに叩かれるほどの重罪人なのだろうか.多くの若者や大学人がカンニングをした彼を擁護するようなコメントやブログ,発言をする背景には,そんな教育の機会を自ら放棄し,警察と同調した京大権力へ批判とともに,彼の将来を考えてのことだ.
 紙のカンニング,他人の答案を覗き込む,そんなことと基本的に何がどう違うのか.カンニングした人を全員犯罪者に仕立て上げるのであれば,今後京大を受験する者はいなくなる.
 入試という人生の行く末を左右するような一大試験を経験したことがある者ならだれでも覚えがあるはずだ.
 この問題がわからない・・・どうしたら・・・
 少なくとも「どうしたら・・・」と考える頭の奥の一部では,良からぬ思いがふとよぎったときがなかったか.誰でもカンニングする可能性はあるのだ.それを止めさせるのは当然倫理観もあるし,抑止力も働いているのである.
(2011/3/6記述)