“銃後の守り”としてのフルスタ・ボラ活動 〜楽天ボラへの期待〜 |
楽天ボランティア募集開始! |
楽天ボランティアの募集が始まった。 ボランティア内容は、
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先行事例【宮城スタジアム見学案内】 |
まず、試合が行われない日のボランティアが設定されていることの大きな効果について述べる。すなわち、(2)のスタジアムサポートだ。 グランディ・21ボランティア見学案内班(飯島班長)は昨年度積極的に宮城スタジアム見学案内を実施した。その活動日は右の表のようであり、4月から11月のほとんどの休日が見学案内日になっている。 ほとんどの休日が活動日になっていることの効果は絶大であった。確かに雨の日、寒い日などはほとんど見学者は訪れなかったと聞いてはいるが、4階の展望ルーム、特別室、3階のメインスタンド、2階の選手ロッカー(日本代表側)を訪れた見学者の、驚きと歓声は、ボランティアにとって、かけがえない貴重な対価であった。 「ええ?見学できるんですか!!!」 この驚きこそ、見学案内班にとって莫大な燃料となって、ボランティア魂を燃えさせるのである。実際にエレベーターに乗って最上階(地上40m)に行ったときに、その驚きは歓喜に変わる。 「・・・すごい!」 目を見張る子どもたち、遠くを眺めて、うなづく老夫婦。 そんな光景を傍らで観察し、いつものように「このグランディ・21の敷地は・・・」と淡々と説明する、見学案内ボランティアの澄み渡った声が、展望ルームに響き渡る。 ボランティア活動の真骨頂が今始まるのだ。見学者の歓声と、知識欲を満たす施設紹介の数々、あるいはワールドカップのエピソードなどが、スタジアムと一体となって、見学者の全身を襲うのである。 身震いするような感動に包まれる人も決して少なくはない。 人を圧倒するような、人を寄せ付けないような、巨大なコンクリートの塊は、見学案内ボランティアによって、人を暖かくする、やさしい命を吹き込まれるのである。 2階のロッカールーム。 ここで、見学者は人のふれあいを確実なものにする。あの日あのとき、1億2000万人の人の期待を一身に受けて戦った、戦士たちのぬくもりを、確かにその手、その身に感じることができるのだ。 それはもちろん、魂を吹き込む担い手、見学案内ボランティアの優しい口調と、正しく伝わる言葉によって、なされるのである。 まるで今日が2002年6月18日であり、まさにそこにピッチに立とうとしている11人の若き選手たちがいるかのような、心地よい錯覚に落ち、いや落ちたいと思う見学者の背中をそっと押しているのも、ボランティアなのである。 ジャパンブルーの戦士たちが去ったあとのスタジアムを、確かに守り、いや見守っているのは、ほかならぬグランディ・21ボランティアであることは、疑う余地はないのである。 |
“銃後の守り”とは |
フルキャストスタジアム宮城(県営宮城球場)には、東北楽天ゴールデンイーグルスの選手たち専用のロッカールームもあって、まさしくホームである。クリムゾンレッド色に輝く選手へのサポートは、ホームだけに最大限することができる。 ところが、アウェイの場合は、スタジアムには若いイヌワシたちはいない。アウェイで心置きなく戦うために、しっかりお留守番をし、また、アウェイの地に向けて、ファンサポーターが精一杯の応援を行う仕組みをつくる必要がある。 まさしく、“銃後の守り”をする必要があるのだ。 なぜなら、ボランティアは、ホームゲームでは、環境活動などをするが、その当日は当然スタジアム見学案内は想定されていない。ところが、アウェイに行った留守には、選手たちの戦いの記憶と汗を、ファンやサポーターが共有できるような仕掛けがあれば、もっともっと選手とファンサポーターは近づくことができるだろう。 それが、スタジアム見学案内である。 宮スタのジャパンブルーの代わりに、フルスタにはクリムゾンレッドが似合う。 若イヌワシがアウェイで戦っていたりして留守のスタジアムを守るのが、ボランティアスタッフである。“銃後の守り”として、訪れる見学者の相手をして、アウェイにいけないファンサポーターのモチベーションを高くするのだ。 フルスタを訪れる者は、スタジアムを自分のもののように思い、スタジアムとチーム自身を一体化するのである。その思いは、見学案内ボランティアによって強くなるに違いない。 4月1日。ホーム開幕。 その日から歴史が刻まれる、フルスタ。 でも、その前、多くの汗と涙を吸ったダイヤモンドがそこに確かにあったことを忘れてはならない。それもまた、非常に重要なフルスタの歴史なのだ。 まさしく、フィールドオブドリームス。 今、新たなステップに向けて走り出す。ボランティアは歴史の代弁者として、また、若き戦士たちの戦いの伝道師として、訪れる者に、正確に、また、感動的に表現するのだ。 |
過去から未来への、フィールドオブドリームス |
野球をやる者にとって、いや野球を見る者にとって、垂涎の的、その意味することがフィールドオブドリームスだ。 宮城球場は古臭くてとても酷いとはいえ、甲子園にむかう者にとっては最大の難所であり、少なくとも宮城県のベースボールファンにとっては聖地なのだ。 フィールドオブドリームスを夢にしない役割が、まさにボランティア、つまり「支える者」の役割である。ボランティアは、試合のないとき、単なる箱にどんな命を吹き込むのだろうか。それはかつて宮城球場で流された、汗と涙の歴史を語るのか、それとも明日に向かっての希望と期待を話すのだろうか。いずれにしても、訪れた者は、支える者=ボランティアによって、確かに自分の実感としての宮城球場、いや、フルキャストスタジアム宮城を見るのである。 たとえば、どんなことが、今まで、あっただろうか。 ロッテオリオンズの本拠地、華々しいオールスター戦など、多くのプロ野球があった。 宮城球場は、1952年の第7回国体開催に合わせて、1950年5月27日に開設され、1972年11月、に照明設備が完成。ナイターのできる球場、宮城球場にロッテ・オリオンズが引っ越してきた。 1973年から1977年、ロッテは年間30試合前後使用したのだ。 1974年、パリーグプレーオフ開催。でも日本シリーズは行われず、後楽園で戦った。そして見事日本一となる。ただ、日本シリーズが行われなかったというショックは結構強く印象に残ったようだ。 そして、1992年、地方球場としては初めてのプロ野球オールスターゲーム開催。全セが4−2で破り、佐々木がセーブに輝く。 なんて、ことを言いたい・・・・ さらに、高校野球も。 1984年6月には、東北高校創立90周年硬式野球部創部80周年記念記念行事として、PL学園(桑田、清原ら=2年生)、箕島高校(島田、杉本ら)が招かれ、宮城球場で東北高校と戦ったそうな。清原のホームランがすごかったとか。 こんな多くの歴史を刻んでいる、宮城球場。 見学案内ボランティアの舌の冴えが期待される・・・・
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