“あるある”と科学教育 |
仙台放送21時の「あるある大事典II」の納豆にまつわる疑惑で中止に追い込まれて、なんだか大騒ぎだ。 変だな、あの番組は、バラエティであって、決して「科学番組」でも「生活番組」でもなく、すべてはフィクションのバラエティではなかったの? ハッチャキ!!マチャアキ、かっくらきん大放送、八時だよ全員集合、バカ殿様 あたりの系列ではなかったのか? いや、「花王ファミリースペシャル」終了後、前々番組の「花王名人劇場」に帰ったと思ったのだが、あれは科学番組だったのか? いや、そんなことは決してない。断じてない。 あれが科学番組だとしたら、この国の科学はどうなってしまうのか・・・ まあ、詳細な調査は宇宙人ジョーンズに任せるとして、何が問題なのか、科学者の一人として、コメントしてみたい。 「あるある大事典」最初からそうなのだが、やっている実験といわれるものは、決して科学実験ではなく、ジョーンズもびっくりの、単なる実験ショーなのだが、それをまともにとらえる方に問題がある、と言えば言い過ぎか。 元々、この国の科学への興味や素養は世界平均よりも少々高いもので、それが日本独自のものづくりへの興味、そして産業(ホンダやソニー)へと進んでいったものなのだ。軍隊を持たない日本がこれほどの科学技術を有し、それを世界に誇った(過去形であることに注意)ことは、正直驚異ともいえた。なぜなら、すべての科学技術は、たとえば旧ソ連(ロシア)あるいは北朝鮮をみてもわかるように、軍隊の近代化に伴って発達したわけで、その科学分野は、核兵器から生物兵器まで考えると、物理、化学、生物、材料、機械、原子核、などあらゆる分野にわたっている。 それに比べて、日本は軍隊の近代化は自分のところでやったわけではなくすべてアメリカに依存し、従って日本の科学の進展は軍隊の近代化ではなく、専ら、かつ最初から民生用に特化していたわけで、ここは他の国に類がない特殊性である。 そうした科学教育を受けてきた人々にとっては「実験」と聞いた瞬間に「科学実験」を連想し、それからは揺るぎない真理こそが得られる、と結びつけることとなった。このこと自身は科学者の私にとっては、世界に誇るべき日本の特質と思うし、このことを変える必要は全くない。実験と聞いて科学を連想するような人種を人類の誇りにさえ思う。 だが、こうした特質を看過した上で、卑劣な番組を作り出していった作り手が、関西テレビであった。「楽しくなければテレビではない」というようなスローガンだけで邁進した彼らの手法は、科学への崇敬と科学への憧れを、利用するだけ利用して、とても科学実験ではないものを、実験と称してテレビでやるようになった。 実はこのときから、科学へ崇敬とか科学への本当の意味の興味が、国民、特に子どもたちから無くなってしまっていった、といってもよい。「あるある大事典」の「実験」が本当の「実験」であると誤認してしまった子どもたちへのテレビによる歪んだ教育こそが、最大の問題である。 それ故、私の家では、こうした番組は絶対に見せていない。欺瞞欺罔(ぎまんぎもう)に溢れたバラエティなら「実験」と称してわざわざ“それらしく”やることも、二流の専門家たち(失礼、だが、明らかに第一線の科学者ではない)をテレビに登場させて、「かっくらきん」的放送をすると、科学について未熟な者たち=子どもたちは、そのことを信用してしまうわけだ。 そして、本来、バラエティと笑っていた大人たちも、なぜかバカな行動をとるようになる。それが放送後次の日の、阿呆な購入行動につながっている。 「あるある大事典」だけの問題ではなく、かつて問題になった「買ってはいけない」や「ニュースステーション 所沢ダイオキシン問題」あたりは、日本人の科学への深い崇敬とか、科学への本当の興味を減らした原因の一つになっているようにも思う。もちろん一方で、科学を教える教師の減少や、ゆとりと称して怠惰でスポイルな教育を進展させてきた文部科学省の罪は重い。 もちろん、「あるある大事典」を科学番組、生活番組と思いこませた、倫理観のかけらもない連中こそ、言語道断であることは間違いない。 が、関西テレビやフジテレビを批判している、自分自身の、ものの見方をより鋭くさせないといけないのではないか。 2007/2/7執筆
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