W杯後の宮城スタジアムの問題
2001/05/16 revised、2001/08/26加筆2001/08/28加筆2001/08/30加筆


ワールドカップ後の宮城スタジアムをどう使うのか、という、大問題のお話です。
選択肢は2つ
  1. みんなで利用する
  2. ぶっこわす(解体して更地にする)
5万人規模の大会なんぞ、そうあるものではない。10年に一度のための施設など、赤字財政の宮城県で持つ必要はない。国が管理できないのなら(できるはずはない)、県民が利用するか、ぶっこわすしか、ない。

まず、どうしたら、県民が利用するかどうか、考えよう。
総合型地域スポーツクラブのメッカとして利用するか、ぱらぱらと県民が利用する、というもの。
どう考えても、5万人規模のスタジアムを利用する理由は見あたらない。利府町には種々の施設が整っているし、仙台市も結構あるからだ。
利府町民から遠く離れた存在である、宮城スタジアムは、どうも存続理由が見あたらないのである。
つまり、現段階での結論は、ワールドカップ後は、ぶっこわして、更地にするしか、あるまい。
この結論が覆される可能性はあるのか。
非常に確率は低いが、ありうると思う。県民のものになったときだ。
赤字財政をおして、維持をするに、ふさわしい施設となったときだ。
どういうときだろうか、あるいは、どういうふうに考えればいいのか。それを今後、考えていこう。

理想としては、じっちゃん、ばっちゃんが、ピッチで、ゲートボールやグランドゴルフを興じ、トラックでは子供たちが徒競走の練習をしている。
そんなふうに、身近にならないと、意味がない。
とりあえず、イベント重視なら、利府町体育大会を開いたらどうだろうか。

(下記は、2001/05/19加筆)
利府なんでも掲示板で、ぎんさんが紹介してくださったので、みんなで考えて頂きたい。
まず、写真家の宇都宮徹壱さんの「モノクロームの中の冒険」の「第55回 日本・サポーター新世紀(2)・ いまさらながらの宮城スタジアム問題」の中から引用してみる。

 祭典が終わったのち、果たして宮城スタジアムは、県民から愛される存在となり得るのだろうか? 残念ながら現状のままでは厳しいといわざるを得ない。たった3回の「アバンチュール」を経験しただけで、あとは誰にも顧みられず、誰からも愛されないまま老いてゆく薄幸の美女――宮城スタジアムのこれからを想うとき、どうしてもそんな暗いイメージばかりが脳裏をよぎる。
 スタジアム「自身」には罪がないだけに、なおさら哀しい。
そう。どうしたら、「県民から愛される存在となり得るのだろうか?」である。
利府にはすでに、中央公園などのスポーツ施設が整っている。うちの子供たちも、グランディ21には行かない。はるばる、青葉台を越えて自転車で行くのである。
なぜ、宮城スタジアムを含むグランディ21が、隔絶した存在となってしまっているのか。
理由はいろいろある。これについては、宮城県という行政に猛烈に反省を促したいのだ。
(1)排他主義
 国体、ワールドカップ。この開催に向けての警備、警備、警備。
 声高に言ってはいないが、かといって、スタジアムに見に来い!とも言わない。
 コンクリートに囲まれたグランディ21の競技場施設は、無言の威圧感を示している。
 ところが、南側の公園はいっぱいの人で、あふれているではないか。しかも、新しい施設(遊び場)もできるようだし。
 人を惹き付けるものとは何か。この点で決定的な間違いを犯している。
(2)県主導の功罪
 宮城県主導で、ワールドカップを推進してきた、という功罪がある。
 確かに、県主導でやると、大きなことはどんどん決まっていき、スムーズであるが、その功績に裏側に致命的な傷を負ってしまっている。
 国体は利府町も積極的に関わっている。だって、国体は県全体で行うもので、それぞれの市町村が積極的に関わるチャンスがある。
 ワールドカップは違う。推進委員会を県主導で作ったのはいいが、利府町から助役と、総務課長が、あくまでも“形式的”に参加している感は否めない。
 そうした“利府町封じ”をやっておいて、ワールドカップ後、さあ使え、と言っても、時既に遅し、である。
 宮城県が利府町に余分な金や気を遣わせないという配慮は十分にわかるし、それよりも、県として行う重要な施策であることもわかる。
 が、住民は県を見てはいない。町こそが生活に密接に関わる対象なのだ。
 宮城県は、せいぜい海外に行くときに、パスポートでお世話になるだけの対象で、ほとんどの住民は、宮城県など意識しないのである。
 その県主導である、ワールドカップが利府町住民にとって、“ピンと来ない”のは、当たり前。
 その前提である、宮城スタジアムが、“おらが町”のもの、となっていないのも、また、当たり前。
(3)利府町の怠慢
 とはいえ、利府町も怠慢である。
 国体、ワールドカップと、ま、内容はともかく、おらが町で開かれる、大きな行事ではないか。
 国体は多くの町民がよく知っている行事なので、いまさら勉強会でもないが、ワールドカップについて、利府町主催で、何かやったのか?
 それより、「宮城スタジアム」は、誰が、どうやって使うことができるんだ? 知ってるの?
 宮城県に遠慮して何もやらないのだとすれば、変だ。
 税金で毎年3億円という維持費をつぎ込む、宮城スタジアムは、決して利府町が関係ない、と言えない存在なのだ。だって、利府町民の税金も入っているのだ。
 ワールドカップのための、宮城スタジアムか?
 そうではないでしょ。宮城スタジアムで、“たまたま”ワールドカップをやるし、国体をやるだけのこと。
 だとすれば、同じ利府町内にある、宮城スタジアムでの国際的な催しについて、役場の職員を筆頭に、みんな勉強しなくちゃいけないでしょ。
 当たり前のことができない。職員の数の問題など、いろいろあるが、やらなきゃいけないことは、やらなくちゃ。
 利府駅前に「ワールドカップの町」と誇らしげだが、建った人は、ワールドカップの何を知っているというのか。
 もっといえば、「なぜ、宮城スタジアムでワールドカップが開かれるのか。仙台スタジアムではだめなのか。」などなど。疑問は多いはず。
 そうでしょう? 利府町役場の方々。
(4)町民の怠慢
 最後は我々町民の怠慢だ。
 隣の人は何する人ぞ、という感じで、おらは関係ない、と思っている人が多いが本当か?
 「宮城スタジアム」は、“税金”で作られたんだ! ということを、思い浮かべましょ。
 宮城県の多くの市町村の中で、“利府”が選ばれて、そこに作られたんでしょ。
 光栄ではないですか。そう思わなくても、利府町以外の人は、あのご立派な施設をどう思っているのか、利府の人は理解できないのか。
 利府町民がもし、ワールドカップ後使わない、としたら、他の市町村の人はどう思うのでしょうね。
 それでなくても、国体道路はできるわ、何はできるわ。。。、と羨望のまなざしを感じないの?
 おらが作ったものではなくても、おらが町にできてしまったものは、仕方がないでしょ。
 みんなで知恵をだしましょ。
 したら、なにかいい方法があるでしょ。
 なかったら簡単。 ぶっこわせば、よい。それで終わり。

グランディ21の陰と陽


 この「宮城スタジアム問題を考える 〜ワールドカップがやってくる〜の現在(2001/8/26現在)の表紙を飾る写真は、グランディ21(宮城県総合運動公園)南側から撮影したものである。今春オープンしたばかりの、集いの広場の県民の森公園寄りから撮影している。
集いの広場やその北隣の遊具広場は、休日ともなると家族連れで一杯となる。駐車場もこの公園側が真っ先に埋まっていく。
グランディ21の“陽”の部分である。人々が集い、子供たちが遊ぶ空間であり、県民の森への遊歩道などが整備されている。今後さらに県民の森側に、ピクニックフィールドゾーンが整備されていく。
一方、グランディ21の総合体育館は1万人収容のコンサート会場であり、SMAP、モー娘など多くの有名アーティスト、タレントが来て、多くの人でにぎわった。ここも、ある意味では、“陽”なのだ。
さて、宮城スタジアム。
にぎわったのは、キリンカップ、Jリーグオールスターだけなのだ。といっても、後者は満員にはならなかった。
全国的に有名な大会のとき“だけ”にぎわい、その後にぎわったことはない。
今年、種々の国際的なサッカー大会はすべて宮城スタジアム以外で行われている。ワールドカップに向けて整備された国内10の会場。ワールドカップ後、それが宮城スタジアムのライバルとなる。つまり、国際大会を行う舞台の取り合いとなる。
でも、5万人収容の施設が日本にそんなに多く必要なのか?
赤字財政で息も絶え絶えの宮城県に維持することができるのか?
宣伝しなくても多くの人(休日には延べ1000人以上の人)が利用する公園部分と、コンサートになると1万人がやってくる、総合体育館。この“陽”の部分に対して、宮城スタジアムは明らかに“陰”である。
デザインのユニークさから、単なるシンボルになっているのではないか。シンボルに年数億円の費用をかけるのは、阿呆である。
公園に向かう人々と遊具広場の丘の上から「すごいなぁ〜〜 宮城スタジアム」とうなっている人々は同一の人々であり、かれらは意識の上ではっきりと、グランディ21の宮城スタジアムと、それ以外を分けているのだ。
グランディ21で、“浮いた存在”の宮城スタジアムの末路は、まだ、悲劇的なものを暗示しているとしか考えられない。
子供たちに何を残すか、を考えたときに、巨大な「箱物」が真に必要かどうか、論じるまでもない。
かれらに巨大な借金を残すとしたら、それは我々の取り返しのつかない過ちである。


宮城スタジアム見学会


平成13年6月1日行われた、1年前イベントでは、宮城スタジアム見学ツアーに大勢の人が殺到した。先着順だったために、多くの人は見られなかったのだ。
だが、宮城スタジアムは何も使われていなければ、ピッチ外までは自由に入ることができるのである。そのことさえ知らない人が多いのはなぜか。
理由は簡単。宮城県による県民へのアピールが全くないばかりか、入ることを拒絶しているかにすら見える姿勢である。
見学ツアーもいいが、参加者から漏れることばは「すごい!」。
これは、宮城スタジアムが観光コースというか、単なるシンボルタワーになっている証拠である。
この意識を変えない限り、県民のものにはなっていない。
だが、まずは、知って貰うことが肝心要であり、その上で県民一人一人のものになっていくのだ。
グランディ21の他の施設、特に体育館とプールは、すごい!という存在になり、ある程度使われているが、真に県民のものになっていないことは上述の通りで、子供たちはせっせと利府町プールに通う。
宮城スタジアムはこれにもなっていない、という意味で深刻である。
やはり現時点では、ぶっ壊すしか道はないのだ。

仙台スタジアム


1997年6月1日、ブランメル仙台は仙台スタジアムこけら落としのゲームで引き分けた。
このときから、ブランメル仙台→ベガルタ仙台は仙台スタジアムをホームとして戦うようになる。
元々、東北電力のクラブチームが主体となっており、多賀城の電力グランドで練習していたときはアマチュアのチームであった。ブランメル仙台になり、1996年には主に宮城野陸上競技場(仙台市宮城野区)を、1997年前半は宮城県サッカー場(利府町)を主にホームに使って試合を行ってきた。
仙台市が泉市と合併し、泉市への公共投資は次々と行われ、地下鉄は八乙女から泉中央まで延び、多くの都市計画道路ができた。広大な七北田公園の一角に仙台スタジアムは完成した。地下鉄泉中央駅から歩いて3〜5分の最高の場所だ。
さらに、サッカー専用グランドで、ピッチはすぐそこ。グランドとの一体感が何とも言えぬ心地よいスタジアムである。近所への騒音対策のためか、音響効果はすばらしいし、観客への雨の対策もばっちりである。車椅子利用者や小さな子どものための施設も充実し、国内有数のすばらしいサッカー専用競技場である。
2001年ベガルタ仙台は快進撃を続けている。トップは奪われたが、まだJ1昇格射程圏内にあり、ベガルタホームゲームでは多くの観客で仙台スタジアムは湧く。2万人弱の収容人員だが、このシーズンはほとんどの試合で1万5千人を集客している。
プロスポーツがあまり盛んではない仙台で、ベガルタ仙台の果たす役割は大きい。1973年東京スタジアムを後にしたロッテオリオンズが仙台を準本拠地にして戦い、5年後去って行ったときの仙台市民の落胆は想像するに余りある。
この仙台スタジアムと宮城スタジアムを単純に比較しても何の意味もない。
サッカーゲームを行うところとすれば、仙台スタジアム以外は考えられないし、ピッチから遠く一体感の乏しい宮城スタジアムでベガルタ仙台の試合など想像できない。
川淵チェアマンは、「J1に昇格して宮城スタジアムを一杯にしようじゃないか」と持ち上げた(Jリーグ推進協主催の行事)が、失笑を買っただけのような気がする。
視点は、仙台スタジアムか、宮城スタジアムか、という単純な比較ではない。
県民のための宮城スタジアムにするための仕掛けに、ベガルタ仙台を使うことはできないか、ということである。
ベガルタ仙台と宮城スタジアムには実は共通性がある。
それは、宮城県税が使われていることである。宮城県はベガルタ仙台(東北ハンドレッド)の筆頭株主でもある。
ベガルタ仙台は県民に夢をもたらし、熱き血潮をたぎらせる。多くの税金が投入されているが、そういうバックが楽しい。
宮城スタジアムはどうか。
そこが問題なのである。年間3億円以上の経費をかけて、我々は宮城スタジアムから夢を感じ取れるのだろうか。

メッカ


日記に書いたことを再掲する。

来年、日本を舞台に障害者サッカーの国際大会があるらしい。今年、第1回障害者スポーツ大会を実施する宮城県こそ、その会場にふさわしいと思っていたら、どうも会場は東京、横浜近郊になるらしい。
残念よりも、阿呆である。
誰がって? 無論、宮城県だ。
ワールドカップに向けて多くの新しいサッカー場やら複合競技場やらができた。
狭い日本にそうやたらに作ってどうする気なのだ。
しかも5万人規模のスタジアムがいっぱいできてしまった。
阿呆である。
5万人規模のゲームなんて、サッカーだってそんなにないわ。陸上など他の競技、コンサートなどなど、いろんなジャンルで、5万人が集まることは、希有なことである。
しかも、そのビッグスタジアムが「常設」されているのだ。
阿呆である。
各スタジアムは何かに特徴付けしないと、生き残れないことは確かだ。
では、宮城スタジアムは何をめざすのか。
地元の生涯スポーツコア施設としての運営を目指すのか。そうであれば、観客席は不要だから、ワールドカップ後はさっさと壊すのが妥当だろう。
障害者スポーツのメッカにするのか。そうだとすれば、障害者サッカー大会招致をしなかったのは大失策である。
私自身、宮城スタジアムが障害者スポーツのメッカにふさわしいかどうかは、全くわからない。
ただ、日本中、あるいは世界中の障害者が、宮城の利府に行けば、なんかやっているだろう、と思ってくれれば、こんなにうれしいことはないようにも、思う。
健常者と障害者を区別することは、無論、ナンセンスである。だったら、時代に逆行するように、何をいまさら、障害者スポーツのメッカ、だ。と、こう反論を受けるかもしれない。
いやいや。障害者こそスポーツが必要と思う私は、逆の発想である。
障害者スポーツの延長線に健常者のスポーツがあり、その境はないのだ。
だからこそ、基礎スポーツのメッカ、つまりは、障害者スポーツのメッカに、宮城スタジアムこそ、ふさわしい、とも思う。や。そう思いたい。
ここにくれば、なんかやっている、そんなところこそ、真のスポーツ倶楽部なのである。

これまで述べてきたように、5万人の陸上競技場、あるいは5万人の兼用サッカー場が必要かどうか、である。
必要とすれば、上述したように、何かに特化しないと難しいだろう。
高校野球なら甲子園、ラグビーなら花園、テニスなら有明か?
○○なら、というのが欲しい。しかもワールドカップまでの短い期間にである。
スタジアムを全部ぶっ壊すのは、何とも悲しい、と思う人が多いだろうが、県税をつぎこんで、なお、老いていくスタジアムを保存して何の意義になるのか。再来世紀に史跡扱いされるのを見越しても無駄な金である。
では、スタジアムはぶっ壊さないで、観客席だけぶっ壊すという手は、ないことはないだろう。
無論、サブトラックを含めて、県民が利用しようという気にならないとダメだ。
伊達な屋根が惜しいか?
そうではあるまい。
使わない施設など、無駄そのものである。
なぜロッテが仙台に来たのか。東京スタジアムの維持費が出せないからなのだ。東京スタジアムの末路はご存知の通りである。
このように民間では不要なものは、どんなに良くてもぶっ壊す、というのが普通になっている。
たとえば、「アクセル(仙台港国際ビジネスサポートセンター)」。
夢めっせみやぎの隣の建物。入居者が集まらないという。一般人にとっては、交通アクセスの問題があるから、当然かな、と思うのだが。
そういうものを、どんどん建てちゃう。
子ども病院のように、県民の多くが欲しいと願い、長い時間かかって念願が叶ったものは、建てる前から県民に知られて、また、侵透しているのだ。
宮城スタジアム。
特化するか、無駄なものを壊して県民が使うか、あるいは完全にぶっ壊すか。
妥協してもこれ以上は無理だろう。

県民が使うために必要なもの


宮城県民、仙台市民が使いたくなる仕掛けはなにか。
当然のことながら、「人が集まらない問題」で書いたように、人が集まりたくなるようにしなければならない。
さらなる公共投資を避けなければならないが、もし宮城スタジアムを温存させるとすれば、県民が集まりやすくしないといけない。
1.岩切から専用軌道(路面電車でいい)をグランディ21まで敷設する。
2.JR岩切駅を障害者に優しい駅にリニューアルする。
つまり、岩切を最寄り駅として有効利用し、仙台市との接点をはかるのだ。利府町民3万人だけで宮城スタジアムを利用することを前提に考えたら、ばかである。
上記のことは、税金の無駄遣いと矛盾している。
宮城スタジアムをぶっ壊すか、残すか。
そういう議論の果てに、残すという選択がなされた場合は、どうしても追加投資が必要である。
追加投資のないまま、残しても、誰も利用しない。

さあ。ここまでして残すか、あるいはぶっ壊すか。
ここから先は、宮城県民一人一人が考えて欲しい問題である。
あなたの税金が湯水のように使われているのが、宮城スタジアムを含むグランディ21全体なのだ。

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