〜序章〜 |
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(前節からの続き) |
キリンカップの終わりは、私にとって戦いの始まりだった。そのとき確かにこう思った「宮城スタジアムは問題が多すぎる」と。なぜ、こんなに交通不便なところに5万人収容のものを作ったのだろうか。他につくるところはなかったのか、と。県民がスポーツをやるところに、5万人収容のスタジアムは必要ない。せいぜい1〜2万人規模のスタンドだけで十分なのだ。いや、スタンドすら不要かもしれぬ。 怒りは宮城県サッカー協会の松原理事長(当時)と話をしたときに頂点を迎えた。いや、サッカー協会への怒りでは決してない。サッカー協会には素直にごめんなさいと謝った。私としては、キリンカップ後の関係修繕に向けて、あちこちと話をしたのだ。 宮城県としてキリンカップ運営に積極的に参加しなかった、ということが分かったとき、言いようのない怒りがこみ上げてきた。キリンカップが続いて開催されるJリーグオールスターとともに、ワールドカップに向けての練習という側面が強かったのに、なぜ、宮城県はかかわらないのだ! サッカー協会といっても専任の職員は確か1名だけで、キリンカップ開催は、降って湧いたような災難なのだ。その状況下で、県が積極的に参加しない、というのは、どう考えても納得いかないし、第一、非常に有効な模擬練習、データ収集の機会を失ったではないか。 このとき、はっきりと宮城県での開催は失敗する、と思った。交通アクセスだけではない、それを補うホスピタリティという面の欠如が予想されたのである。県サッカー協会の松原さんのワールドカップに向けての心配の中心は交通アクセスであったが、それが見事に当たってしまったというところに、この問題が落とす影の深さを見いだすことができる。 6月11日が終わり、次は8月のJリーグオールスターだ。同じ失敗は許されない。地元の意地でも不平不満のないような運営をしてもらいたい。強く心に決めた。菅谷台町内会長の酒井さんと話し合って、ワールドカップサッカー対策協議会を立ち上げることとした。問題は一町内会の話ではないのだ。 早速、東北ハンドレッドに電話した。Jリーグオールスターは宮城県サッカー協会の名前も入っているが、運営は東北ハンドレッドだ。担当者が出た。丹治さんと相手は言った。勢い込んで話をする私であったが、そのとき彼の誠実さに心を打った。後々に続く、長いつきあいとなった。ベガルタファンということではないが、東北ハンドレッドには、男がいた。一方、サッカー協会には、また別の男がいた。こちらも後々まで、いやこれからも、ずっとおつきあいさせていただく、男だ。丹治さんから紹介を受けた名前は、小幡だった。 やっぱり、人が支えるんだ、と、つくづく思った。梅雨空だったが、そのころ、人と人のつながりがいかに大切か、しみじみと感じ、心は晴れ晴れとなっていくのを感じた。 |