私と宮城スタジアム   
〜序章〜
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前節からの続き)
 東北ハンドレッドの丹治氏、貝田氏と入念な打ち合わせが始まった。みんなの思いは同じだ。キリンカップのときのような混乱はもうごめんだ、と。輸送計画に熱弁を振るう丹治氏。彼は自身もサッカープレーヤーで、ベガルタ仙台を支える重要な柱だ。夢のオールスター戦を成功させようと、顔を上気させていた。
 キリンカップではグランディ21内の総合体育館でのコンサートにおける輸送体制がとられたが、1万人対応のものと5万人対応のものでは、自ずから違う。
 丹治氏は新たな構想を次々と打ち出した。まず、初めて地下鉄沿線からのシャトルバス発着をうちだした。本当は泉中央駅から出したかったが、Jリーグオールスター当日は泉区のお祭りが七北田公園で開催されるために、かえって混乱が予想されるとして、旭が丘から出す、と言う。考えてみれば、キリンカップでは仙台駅発着のシャトルは仙台駅を出ると北に向かい、まさに仙台スタジアムをかすめて県民の森の狭い道を通って、宮城スタジアムに向かったのだ。その経路上に旭が丘駅はあった。
 続いて彼は送迎車対策として第一駐車場の1/3を開放するとした。キリンカップでは、送迎車が岩切あるいは利府とスタジアムを結ぶ道沿いに多数停車して、渋滞を引き起こしたのだ。
 地元町内会から東北ハンドレッドとの協議に加わっていた、青葉台町内会長の菅氏としらかし台町内会長の太田氏はキリンカップ時の混乱をつぶさに見ていた。それを、丹治氏に話した。彼は、ありがたい、と言葉を出した。菅谷台町内会長酒井氏は、いや、おれたちは地元住民だ、自分のところのことはよく知っていて当然なんだ、と、受けた。
 信頼関係が築かれていった。このとき築かれた信頼関係はワールドカップ後まで続き、今もなお、丹治氏、貝田氏のことばをみんな信用しているのだ。結局、信頼関係が大切なのだ。そのためには嫌と言うほど議論をする必要があるし、またそのためには情報の共有も必要なのだ。後述するが結局、ワールドカップサッカー推進局の輸送・警備班の人たちとはそうした信頼関係は築けなかった。

 丹治氏は意外なことを言った。もはや7時キックオフが周知の事実となっているのに、Jリーグ側に要請して6時キックオフにするという。放送局(テレビ朝日系)への交渉を始めている、という。前代未聞の事態だった。7時から6時に繰り上げることで、非難が殺到し、やっぱり僻地だという、そしりを受けるかもしれないが、その当時の私達は、とにかくキリンカップで得た汚名の返上だけが、目的だった。些細な批判など、眼中になかった。
 挽回するぞ。みんなそう思った。

 やがて8月を迎えた。地元への御礼と、Jリーグオールスターチケットの先行販売を貝田氏は許可した。菅谷台の住民はこぞってチケットを購入した。
 その数、700枚!
 600戸の町内であることを考えると、その数は驚くべきほどだった。
 キリンカップでスタジアムに訪れた菅谷台の住民は数えるほどだったが、この数のすごさは何だ!

 ここで私は女房に心から感謝しないといけない。このチケットの収集、販売は一手に彼女が行ったものであった。もちろん、ボランティアである。一銭にもならないばかりか、間違えば、身銭を切ることにもなる、何の得にもならないことを、彼女は黙々とおこなっていた。
 700枚。大したことはない、と思うかもしれないが、それは私、いや彼女にとっては、大したことだったのだ。

 だが、私は素直に喜んでいた。
 菅谷台住民 2000人のうち、約三分の一がスタジアムに足を運ぶのだ。すごいことだ。
 私はこの時点で、Jリーグオールスターは半分成功した、と思った。地元が愛してこその、大会だ。地元が愛してこその、宮城スタジアムなのである。

 8月の熱い日、私は、宮城スタジアムをのぞむ、あの位置に立っていた。
 彼女は、微笑んでいた。
 私は確かに、宮城スタジアムが好きになっていた。


2000/8/26午後1時頃撮影