あの日から1か月が過ぎた・・・ |
東北に住む者,いや日本人なら,だれでも,あの3・11災害は夢だと思っている. でも,少しずつ,この大災害の事実を受け入れようとしている. 今日も,ほんの近くの塩釜,松島,多賀城を回ると,あちこちに大津波の爪痕がのこっている. もうあの日に戻ることはできないのか. もうあの元気で,豊かで,笑顔の絶えなかったときに戻ることはないのか. 延々と続くタンクローリー,トラック,自家用車がまるでおもちゃの捨て場所のように続く,産業道路を通りながら,思った. あの日から耐えることのない涙が,今日も目から落ちて行った. 悲しみがこんなにも長く続くとは,自分の親が死んだときにも思わなかった. そう,夢だと思いたい. 夢だと思いたい. そう思って寝ようとした4月7日. また,突然の地震が襲ってきた. またしても,停電. 悪夢がよみがえる. あわててラジオをつける. 津波警報・・・ またか,と思った.またしても・・・ 私たち東北に住む者が,いったい何を悪いことをしたというのだ.何でもこんなにも何回も幾度となく,やっつけられねばならないのか. 3・11 そのわずか1週間後. 壊滅した気仙沼の人が言った. 「それでも海が好きなんだ.漁師が好きなんだ.」と. なんて,人間は強いんだろうか.なんて,人間て素敵なんだろう,と. 「生かされた命」 と,3・11直後はそう思っていた. でも,今は,「生きていくべき命」と思い,私は私なりに,私の仕事を精いっぱいやり,それでこの東北に貢献しよう,と. 「必ず,復興するぞ!」 と,アホな言葉を掲げたものだ. なんとか私でも,精いっぱいやる仕事以外にちょっとだけ時間を見つけて,何らかのサポートをしたいとも思った. いや,自分が精神的にサポートされたいのかもしれない. この地に多くのボランティアが入ってくる. 頼んだぞ,若い力.その力が復興には必要なのだ. その若い君たちに言っておきたいことがある. これも,私なりの,東北へ恩返しだし,1サポーターのつもりなのだ. 負傷者がほとんどいないので,被災者が元気だと思い込んでいる君たちへ. 君たち,忘れていることはないか? この震災,1万人以上の人が死んで,1万人以上の人が行方不明なんだよ. 親が,子供が,友達が,目の前で波に持っていかれるのを見た人たちが,生き残ったんだよ. かなりの人が,自分も死にたいと,思ったはずなんだよ. そんな地獄を見てもいないで,俺も含めて,被災者の気持ちの,何がわかるというんだ. 海に近い避難所に,そんな虚無感的な空気が流れいていることを肝に銘じよ. もともと,排他的な空気を作っている東北の村がそこにもあるんだよ. 彼らは今は標準語でしゃべっている. そんなうちは,決して打ち解けてはいない. 方言でしゃべるようになったら,こっちのもの. でも,それはスタートに過ぎない. 2万人が死んだという重みを,語りだすのでは,それから. そして,それは,その瞬間,生と死をともにした者にしか,本当は,きっと,わからないはずさ. だから. この災害,支援は果てしなく長い.それを肝に銘じよ. 地震のとき,5分以上揺れて,すぐに停電になった. ラジオしか聞けなかったが,唯一実況していたTBC(地元放送局TBS系)アナウンサーが「10mもの津波が・・・・」で絶句して十数秒何も言わなかった. 彼は志津川湾の情報モニターを見ていたのだ. 停電になったので,津波に遭った人以外の被災者は,地獄を生で見ないで済んだのも確か. 地獄から帰還した者と地獄を見なかった者が,交差しているのがこの大災害. だから. 今からでも遅くはない.現地で地獄の跡を見て,想像するがよい. ボランティアはその現実に目を背けるな. 地獄の跡を見るとき,2万人を超える命が一瞬のうちに消えていったことを思い浮かべよ. さあ,涙はもう嬉しいときにか流さないようにしよう. さあ,声は元気づけるために発することにしよう. さあ,手は支えるために使うことにしよう. これからは,良い方にしか向かわない. 最悪のシーンはドラマの最初に終わったんだよ. |
3・11関連ページ |
未曾有の災害 〜でも,がんばるしかない・・・ |
2011年3月11日(金)午後2時45分,突然,それはやってきた. (震度7 マグニチュード9.0) そのとき,私は栗駒に近い宮城県大崎市北部にいた. 縦揺れはほとんどなく,ほどなくして横揺れがやってきた. これが相当にしつこく,だんだん,だんだん,強くなっていて,立っていられないどころか,しゃがんだり座ったりしていられなくなる.5分以上揺れて,ようやく収まった. かと思ったら,余震なのか,また揺れてきた. このしつこい揺れが1時間は連続して襲ってきた. 電気は最初の揺れの直後に止まった. あわてて,研究室と女房に携帯電話するが,かからず・・ その後すぐに携帯はつながらなくなる. でも,緑の公衆電話だけはつながる・・・ この“いのちの電話”で,女房,子供たちとの連絡がとれた. 家族それぞればらばらの地で,それぞれが生きるために頑張っていた. 長女は3/13日曜日に再会するまで,大学にとどまっていたし,次女は手術直後の被災でもあり心配していたが,気丈にも自分だけでいいと,母親を帰宅させるように促した. その瞬間,次女とX線検査室にいて,面倒を看ていた女房はすぐに帰宅し,長男二男とともに不安の最初の夜を過ごしたようだ.その日は私たちの結婚記念日なのに・・・ 次の日,3/12の朝,私は這う這うの体で帰宅した.お笑い草だが私の誕生日である. 地震直後連絡がとれて大学にとどまった長女と,手術で入院したままの次女,以外の家族が集まり,無事を喜んだ. ただ,あの日3/11地震直後から固定電話,携帯電話,電気,水道がすべて止まった.水道はそれでも12昼くらいまでちょろちょろと流れていたが. 外との連絡は全くできなくなった・・・ でも,たぶん宮城県の人はみんな持っているはずの,非常持ち出し袋と,手回し充電式のAM/FMラジオ・懐中電灯があったので,生きていけると思った. ラジオがすべての情報の源となった. あれだけのネット環境が,あっという間に,もろくも崩れていった・・・ 加えて,携帯電話はどの会社も,圏外(サービスエリア外),という状況に陥る. ネット環境にいるべく,3G環境にも,ならなくなってしまった・・・ こうして,夜はろうそくをつけ,家族みんなでラジオを聞くということになった. 後でわかったことだが,大学も高校も中学もみんな“携帯メールでの連絡が主”ということで,私自身が安否不明となってしまった. 何だか,この現代社会の死角を見たような気がした. 私は家族とこの3日間を生き続けた. 同じ利府町でも死者は出ているし,安否不明な人も多い. 私の友人も塩竈や多賀城,仙台市若林区に多く,まだ連絡が来ない人も多い. 自分が被災者となり,情報遮断を味わい,また,生活の苦労を味わって思ったのは
依然として,ガソリン等燃料の決定的不足,水・食料の不足が続く・・・ いつ,春は来るというのか. そういえば,3/9の震度5弱(M7.2)三陸沖地震のときの新聞記事で,“気象庁「宮城県沖と関係なし」”というコメントがあり,それが河北新報の一面の見出しとなった. ある意味,この見出しが,ある種の気の緩みをを誘ったような気がしないではない. この地震(3/11)が起きた時,最初に3/9の地震の余震だから大したことはないか,と思ったのは確かだ. でも,あんな大津波は想像を絶していて,人知をはるかに超えたものに,あまりにも人は弱い. たまに,津波に対して油断していて,逃げなかったのではないか,という論調があり,今回もとあるテレビ番組でとある専門家(と自分では言っている)が,「20分あるのだから」という発言をしていた. 今回,たとえば,志津川だと,2km以上も中まで津波が襲ったのだから,20分で高いところに逃げるのは不可能. さらに,名取市閖上だと,高いところはなく,ほとんど逃げ場所がないまま,津波が押し寄せた. 宮城県の人に油断はなかったはずだ. あまりにも避難の時間と適当な場所がなかったのだ. これはもう,人知を超える,想像することさえできない,甚大な災害なのである. 5分以上続いた地震と,安全なところまでの距離,それに安全な高さを考慮に入れると・・・・ 安全なところにいて,他人を批判する人を私は信用しない. 2011/3/14 執筆 |