私と宮城スタジアム   
〜序章〜
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その1, その2, その3, その4, その5

前節からの続き)
 菅谷台の町内会長は酒井氏であり、彼は意外に行動力と実行力のある男である。彼は率先して、ワールドカップサッカー対策協議会を着々と、世の中にあるものとしていった。2000年8月当初は周辺の青葉台、しらかし台など5町内会だけの参加だったが、ワールドカップサッカー対策協議会をとりあえず立ち上げていた。その日、Jリーグオールスター開催日に、私達は2002年FIFAワールドカップ宮城・仙台推進委員会と一緒にワールドカップパネル展を実行した。推進委員会は、対策協議会立ち上げ記念の行事と位置づけ、全面的に協力してくれた。
 その日、推進委員会のI女史に初めてまともに会うこととなった。彼女もまた、忘られぬことのできぬ人となった。推進委員会には別にS氏という人もいたが、こちらは有珠山ネット以来のつきあいで、何か世の中の狭さを感じてしまうのだ。
 とにかく、真夏の炎天下、パネル展は実行された。菅谷台にとってはキリンカップで鎖国をひいたことに対する、自分たちなりの、お詫びのつもりであった。だから、通行人とは言わず誰でも入るように呼び掛け、冷たい飲み物をすすめた。もちろん、町内の人も三々五々やってきた。100名程度の人が入ったが、少なく感じた。だが、後になって、このときほど、人が入ることはなかったのである。このことが、宮城県における、ワールドカップを象徴しているような、そんな気がした。もっともそう思ったのはずいぶん後のことであるが。
 その日は菅谷台小学校は2学期の始業式だった。事前に校長先生にはこの日はできるだけ始業式を避けて欲しいと言い、それが無理なら、下校時には交通事故の防止のため、交差点に立ちたいと言っておいた。キリンカップのときの経験から渋滞するとむちゃをする車が後を絶たないからである。パネル展には、昼過ぎから子供たちや、Jリーグオールスターを見に来た人々が訪れた。多くの人が、パネルを見て感動していった。ビデオ放映ではフランス大会の模様が映し出されていた。冷たい飲み物はあっという間になくなっていく。飲みm物などは、すべて推進委員会が用意してくれたものだった。町内会の負担はなかった。ずいぶん気を遣ってくれるな、と私は思っていた。
 3時過ぎから、私は酒井氏と菅谷台の交差点を見回りにでかけた。渋滞中だった。菅谷台団地入口は、菅谷台通行ステッカーのない車の進入を規制していた。迷惑駐車も問題だが、それに至るまでに団地内をあちこちうろうろするし、中には猛スピードで走る車もあるからだ。子供たちはおちおち外にいられない。
 4時半をまわった頃から、酒井氏と相談して、間に合わない人たちへの救済策をとった。後にも先にも初めてやったことだった。それは、菅谷台の空き地に臨時の駐車スペースを確保し、彼らを案内したのだ。私達はホスピタリティの発揮のつもりだった。底の浅い、ホスピタリティではあったが、自己満足していた。
 10台程度の車が強引に突入してきたので、それらを駐車スペースに誘導しておいた。駐車場がないとわかっていてなぜ車で来るのか、私には全くわからない。なんとかなる、と思っているのだろうか。路上駐車して平気なんだろうが、他人への迷惑は全くお構いなしなんだろうなあ、と思った。こういう行為がファン・サポーターと住民とのトラブルの原因となるし、結局は住民が鎖国を選ぼうとする主因になってしまうのだ。ごく一部の悪質なファン・サポーターのために、サッカーに理解がない住民たちの不安を増大させるのだ。日常生活を送っている住民の多くは元来サッカーに興味のない人々なのだ。そういう人たちに今回折角興味をもってもらって、多くの住民がスタジアムにでかけようとしているのに、全く困ったものだ、と思っていた。
 キックオフが近くなった。私は女房と一緒にスタジアムに向かった。


2002/6/8午前6:00撮影