私と宮城スタジアム   
〜序章〜
前の節はここ
その1, その2, その3, その4, その5, その6

前節からの続き)
 夕闇がスタジアム全体を覆い始めた。
 キックオフ後のことだったが、カクテル光線の中でスタジアムが見事に浮かび上がった。光のスタジアム、そんな感じがした。JリーグオールスターはJ1リーグの選手だけなので、わがベガルタの選手らは出場していなかった。いつかきっと、あの中でプレーするに違いない、そう思って、東軍、西軍のプレーに堪能していた。宮城スタジアムにとって初めてのナイトゲームであり、この後ナイトゲームはSMAPのコンサートまでなかった。
 キリンカップではあんまりプレーに没頭できなかったのに、この余裕は何だろうか。そんなことを自問自答しながらスタジアムに居た。

 Jリーグオールスターの反省点として駐車場出場時の誘導ミスと、青葉台上の交差点の渋滞があげられた。これらは運営で回避できるものだったが、キリンカップに続いて今回も起こってしまった。原因は何だろうか。ひとえに警備員やバイト、ボランティアの経験不足によるものと思えた。このとき、ボランティアの育成は是非とも必要だと感じていた。そのボランティアとはスポーツボランティアではなく、いわばイベントボランティアであり、それは宮城スタジアムやその周辺をよく知る住民の中から募集されるべきであろう、とおぼろげながら感じていた。
 8月が過ぎ、日本陸上まであと2ヶ月となった。宮城スタジアムが恐らく初めてトラック競技の開催地としてデビューするわけであり、次の年の国体のリハーサル的要素もあった。

 そのころ、私はワールドカップ宮城・仙台友の会「キックラブ」に応募していた。2000円払って会員になる、というもので、「ワールドカップ機運の醸成」とかいう目的が掲げられていた。一方、ワールドカップサッカー対策協議会の方も風雲急を告げてきた。当初、酒井氏と私の考えでは宮城スタジアム近接の町内会長だけで結成すればいいし、必要な利府FC理事長などを入れた協議会にすればいい、と思っていたが、役場が口を出してきた。もっとも役場が口を出したのはこのときだけであるし、役場自身が私達協議会の存在を認めた、ということでもあった。
 自分たちで言い出した対策協議会ではあるが、次第に公のものになっていく感じがした。
 日本陸上が開催された頃、行政区長会という公の席での承認があり、正式の発足した。利府町全町内会長がメンバーとなり、私が事務局長を務めるというものであった。協議会は2002年4月まで宮城県に対する圧力団体として機能したが、振り返ると余りにも住民側に寄りすぎたきらいがあった。途中で路線の修正を試みたが、いったん自分でひいた路線を変更することなど、許されなかった。フランス大会を生で見ていないこと、このことが私の心に重い足かせとして残ることとなったわけだ。
 対策協議会では当初から、1)交通アクセス問題とそれに付随する交通問題、2)野宿者対策、3)チケットを持たない観客への対応、の3つを主要な問題にあげていた。宮城スタジアムがもつアキレス腱である、交通アクセスに由来するものと、ホスピタリティ、セキュリティの問題に直結する問題であった。
 しかしながら、これらの問題は結局完全には解決されなかったのだ。2002年6月30日、生涯最高の酒を呑むつもりだったが、これらのことが酒の邪魔をした。

 20世紀末まであと1ヶ月となった頃、キックラブの集まりがあった。10名程度の小さな集まりだった。そこでは、泉田氏が世話人代表を務め、私とある女性が補佐という感じに、大まかに決まり、21世紀が明けて1月に、ワールドカップセミナーとともに、キックラブ総会をやろう、という話になった。ワールドカップまで500日という節目の時期を迎え、やることの多さに実感していた頃だった。一方で、2001年早春にモーニング娘。のコンサートが総合体育館で行われるという話を聞いたのもこの頃だった。
 世紀末、何となく不安げな年の瀬を迎えた。


2002/6/8午前6:00撮影