私と宮城スタジアム   
〜序章〜
前の節はここ
その1, その2, その3, その4, その5, その6, その7, その8, その9

前節からの続き)
 3月。
 推進委員会主催のイベントがあった。キックラブはそのイベントに積極的に協力した。題して「サポーター21世紀」。
 宇都宮徹壱さんの講演、写真展であった。推進委員会のS氏とは有珠山災害でよく知っていた仲間であったが、このときは彼が主に動いていた。宇都宮氏は、宮城スタジアムの問題について熱心に語った。同じ思いであった。全く同じ思いが私を捉えていた。
 ただ、立場が違った。いや、住んでいるまちが違った。
 彼は仙台からタクシー等の車で行ったに違いない。車で仙台から利府に向かい、その遠さを実感したに違いない。そのこと自身の矛盾に彼は気づいていないが、それでもいい。とにかく、利府に向かった彼に、遠さを感じさせるものがあったことは確かだ。銀座から池袋にタクシーで向かうときに、池袋の遠さに不満を持つだろうか。否である。
 このとき明確に私を捉えたのは、実際の遠さもあるが、意識的な遠さの重要さであった。“仙台とは違う町の宮城スタジアム”なのだ。だったら、愛子や、秋保温泉に宮城スタジアムがあったとしたらどうなのだろうか。菅生のサーキットは遠いか? 西仙台ハイランドは遠いか? 同じ仙台市で仙台駅から利府よりは遠いところは山ほどあるのだ。非仙台市的スタジアム、そんな感じを受けた。
 仙台市という超有名、トップネームにかすむ宮城県という名。非仙台市的スタジアムは、建設位置からすでに宿命を負っていたと言えよう。利府に作られた新しいスタジアムは、好むと好まざるとにかかわらず、非仙台、という烙印をおってのスタートなのだ。
 だからこそ、より一層、仙台市民から気持ちの上で近い存在にするために、相当意識的に働きかけねばならない。

 私が岩切に固執する理由はそこにある。


2002/6/8午前6:00撮影