〜序章〜 |
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(前節からの続き) |
2001年4月になった。この頃から、キックラブの活動は日を追って、多くなっていく。 4月1日、昔お世話になった、千賀の台団地で、ワールドカップパネル展を実施した。訪れる人はさほど多くなかったが、千賀の台町内会の人にずいぶんとお世話になった。でも、このイベントで知り合った仲間もいるし、塩釜FCの小幡さんは、大勢の子供たちをつれてきてくれた。子供たちは、目を輝かせて、パネルに見入り、また、ビデオを鑑賞していった。 イベント実施は、新しい仲間との出会いの機会であった。古いが、七人の侍や、荒野の七人のような、後々まで同士となる仲間を増やしていった期間のような気がする。 5月6日は、朝日新聞の日韓友情ウォークが開催された。宮城ウォーキング協会の方々と知り合いになったのは、このときであった。また、朝日会の連中(良い意味の仲間だ)などと出会った。利府駅から利府町総合体育館、グランディ・21宮城スタジアム、青麻神社、県民の森、岩切駅という、ハードなコースだった。娘たちと一緒に歩いていった。お手伝いというよりも、単なる参加者という感じだった。 五月晴れのコースはすがすがしくもあり、また、汗をよくかいた。娘たちはよく歩いた。息子たちは最初から参加しなかったが、それは途中で疲れて、おんぶにだっことなる危険性を回避したかったからだ。木漏れ日がすがすがしい県民の森は、すぐそばに住む私達にとっても、新たな発見の連続だった。このときの経験は、後に、菅谷台自然塾のハイキング計画立案につながった。思ったよりも子供たちは頑張ったのである。 そうして、6月。10日には、ワールドカップ1年前イベントが宮城スタジアムであった。推進委員会主催である。キックラブも当然協力した。というよりも、蓋を開けたら、キックラブがいなかったら成り立たなかったのではないか、と思えるほど、推進委員会や運営をした(本当にしたのか?)電通の連中のていたらくであった。 このとき、推進委員会が本当にワールドカップをするのか? と、本当に疑問に思った。そして、電通。ま、つきあうことは今後は絶対にないだろうが、つきあう不運に恵まれたとしたら、大いに文句をたれるであろう。 24日は、待望のフットサル大会が開催された。実はフットサルの試合は初めての経験であった。女房、子供たちみんなで、シェルコム仙台につめかけた。 おいおい。イングランドだの、ブラジルって、まじ、じゃん。 不気味な連中。日本人チームは非力なキックラブチームに、なかなかやるわいのFC2002。大会自身もほとんど、FC2002が主体で開催したものだった。 ところが、キックラブの会員の中の某市議会議員がとんでもない助っ人を連れてきた。ベガルタ仙台育成部の連中であった。ドゥバイッチや鈴木武和さんである。ドゥバイッチは去年までベガルタ仙台レギュラーだったのだ。これはすごい! でも、すごかったのはその勝負へのこだわりであった。ドゥバイッチは秋の電動車いすサッカー大会にも訪れたのだが、とにかく味方にもっともこわい存在となった。でも、そんな勝負のこだわりが、うちの息子たちには小気味よかったようだ。ドゥバイッチ自身も娘を連れてきていた。かわいい娘だった。 とにかく動いて動いて、死んだ、一日が終わった。2分と持たない我が身は、ふがいないというよりも、気の毒、という感情が心をしめていた。 でも、何となく不安な6月だった。 (続く)
2003/01/10現在、執筆中 |