サポータービレッジを開設せよ!
対戦国を見て6/12,18は要警戒だ
大型スクリーンを設置せよ!
利府駅→スタジアムの沿道に出店を!
W杯後は宮スタを解体するしかない!?
シニアボランティア制度を設けよ!

再び、交通アクセス問題を考える
人が集まらない問題シャトルバス問題
もう一回アクセス向上を考えよう

何が問題か?


2002/03/15 revised

宮城県の姿勢は、県財政の危機感からか、かなり後退している。
何が問題か、再検討しよう。
野営場を設置しないこと
大きく分けて、2つの意味でこの決定は問題である。
  • ホスピタリティの欠如
  • 日常と非日常の分離
いずれも、ホスト役としては失格であろう。
だいたい、ワールドカップの試合誘致に手を挙げて、宮城県に呼んできたのは誰なのだ。
そういう意識が完璧に欠如している。無理な誘致をするならしない方がマシなのだ。
サポーターも住民も誰も満足しない。
それどころか、最低最悪のスタジアムまで足を運ぶサポーターは気の毒の限りである。
呼んでおいて、「それはないだろう」という、サポーターの悲鳴が聞こえる。

まずは、ホスピタリティの欠如、という点から考えよう。
大使館に尋ねて「必要ない!」とは笑止である。たとえば、日本人がフランス大会で野宿しなかったのか、というと、答えは当然、否、である。
なぜ、彼らは野宿したのか。
ほとんどの人は、野宿したくて野宿したのではない。答えは単純。ホテル、旅館が見つからなかったのだ。
フランスにはホテルはないのか?
これも答えは、否、である。
単に日本人が泊まる高級なホテル(と勝手にフランス人、あるいは日本の旅行者などが考えているだけ)が、見つからなかっただけである。私にだって、フランスの小さな宿を見つけるすべを知らない。
それなら野宿してもかまわない、となる。サポーターにとっては野宿はそう特殊なことではない。
国内の大会でも、自由席を求めて、前夜、あるいはその前から並ぶためにテントを張るではないか。
それと同じなのだ。
がんばって、旅館・ホテルを探すのなら、野宿の方が“楽”なのだ。
単純である。
さて、今度は世界が日本にやってくる。彼らは野宿しないか?
当たり前だが、答えは、否、である。
1万円もするような、ホテル・旅館に泊まるものか。民宿だって?スペイン語、スウェーデン語ができる民宿が五万とあるのか?
面倒なら、野宿だ。金がかかるなら、野宿だ。
私は若い頃、国鉄チャレンジ2万キロで、駅寝を数多く体験した。
野宿はそう楽ではないが、慣れれば、苦ではない。それどころか、志を同じくする者が集まるのだから、夜を知らない。
野宿は、必然的だ。
次にも関連するが、サポーターは“非日常”を求めて来るのである。
日常生活の尺度で、ワールドカップというお祭りを見ることが、すでに大きな間違いなのである。
古代の日本、“祭り”は男女の出会いの場であり、“祭り”こそ、非日常を代表する、壮絶な場であったはずだ。
男女は出会って夜を知らない。朝まで一緒にいることこそ、“祭り”のもたらす、大きな効果である。
“祭り”がなかったら、男女は知るすべもない。それが日本だったはずだ。
いつ頃か、日本は“祭り”を知らなくなった。だからこそ、ワールドカップという史上最大の祭りを誘致しておいて、出会いの場、あるいは非日常の象徴である、野営場を設置しないような、暴挙に走るのかもしれない。

さて、非日常と日常の分離である。
日本人、特に東北人は、いわば“きまじめ”である。決して、遊び心を知らないのではない。
東北の夏の祭りを見れば、東北人こそ、“祭り”を重んじることがわかる。短い夏に、思い切り燃焼する東北人の姿がそこにある。
つまり、メリハリがつくのが、東北人なのだ。 けじめがつくのが、東北人なのだ。
だとすれば、ワールドカップという史上最大の祭りにおいても、“けじめ”をちゃんとつけないと、東北人にとっては、つらい。
それが、日常と非日常の分離である。
我々、東北人だって、ワールドカップをお祭りとして楽しみたいのである。
その場は、日常生活の中でない。日常生活とは別のところにあるのだ。
だからこそ、日常生活と非日常であるお祭りは区別すべきだ。日本にはワールドカップを日常をつぶしてまで楽しむ状況にはない。
利府の住民は日常生活をおくっている最中なのである。
その日常と別のところに、非日常である野営場を設けることは、ファン・サポーターだけでなく、住民の安心感につながる。
自分の家の周りに、非日常がごろごろしていたら、おちおち寝ていられない。
利府の住民は誰も、野宿者よ、出て行け!と言っているわけではない、しかるべき、非日常の野営場に行って貰いたいだけなのだ。
さらには、利府の住民もまた、非日常を楽しみたいのだ。
そのことを行政はわかっていないのだ。

クローズドサーキット〜お祭り広場〜を設置しない
上述したように、ワールドカップというお祭りを楽しむことは、東北人にとって、そう難しいことではあるまい。
が、残念ながら、東北人には、先導者が必要なのだ。ねぶた、竿燈、山笠、七夕。どれも共通するのは、楽しむための、仕掛け人が必要不可欠なのだ。
では具体的に利府町では何をやればいいのだろう。
多くの利府町住民にはチケットがない。
これを補完するシステムが必要なのだ。
サッカーの楽しみには、(1)見るサッカー、(2)やるサッカー、(3)語るサッカー があると言われ、その3つを全て満足するようなイベントなら、最高なのだ。
だが、FIFAの商業主義の前には、ゲリラ的なクローズドサーキットもできないことは確かで、チケットのない住民はどこで、ワールドカップを楽しむことができるのだろうか。
南米や欧州の人は、自ら楽しむすべを知っているが、日本人、特に東北人には不得手な分野だ。
やはり、ここは行政あるいはリーダーシップをとることのできる人に、お祭り広場を開設して貰わねばならない。
行政が主催さえすれば、開催地に特別に許可を頂いた、2箇所でのクローズドサーキット開催の可能性があるのだ。
宮城県は、仙台市体育館と、勾当台公園市民広場での開催を考えているに過ぎず、利府町でやるとの考え方は全くない。
利府町住民にはワールドカップを楽しむ機会を与えず、ただ我慢を強いるだけの施策である。これでは到底納得できない。国体だって利府の全面的な支援があってこそ、できたはずだ。
無理難題だって、国体の成功のためなら、と我慢して協力したのだ。実際、ずいぶんとひどい要請があった。
ワールドカップに関しては、宮城県は利府町を見放すばかりか、住民に我慢を強いることだけを考えているとしか思えない。
お祭り広場設置は、ワールドカップ後の施設利用にも大きな影響を及ぼす。
迎える利府の住民が楽しければ、訪れる観客も楽しいだろう。
そんな市民レベルのワールドカップ外交の機会を与えることこそ必要ではないのか。
ちなみに、予算をそんなにかける必要はないはずである。

ただ通り過ぎるのを見ているだけの利府
国体では、日が燦々と照っていた。ワールドカップでは、真っ暗。
これが利府の住民の、正直な気持ちだ。
国体のときには、利府という文字が踊り、開会式では天皇陛下が利府を意識して宣言をされた。
ワールドカップはどうだ。
宮城県主導は国体と同じであるが、何かが違う、そう住民も気づいた。
つまり、利府を売り込む、宮城スタジアムが利府にあるということを売り込むチャンスがないのだ。
さらには、利府の住民にとって、どうもおいしいところは、全くないようなのだ。
これについての問題はこうだ。

シャトルバスで、ターミナルtoターミナルで運ばれること
利府駅で降り立った客を根こそぎシャトルバスで運ぶ、という計画は、利府町には一歩も降りさせない、という強い意思である。ふれあいなど、まるで期待できないし、国際交流なんてごめんだ、という態度は、確かに、輸送・警備はうまくいくだろうが、ワールドカップ後に残るものはなにもない。
そもそも、そんな思いまでして、何でワールドカップの試合を誘致したのだ。やはり、ここに行き着いてしまう。
県民の理解を得、利府町民の理解を得て、協力を最大限に引き出して、宮城県を売り込むチャンスではないのか?
推進局は言う。「ホスピタリティ」を持って海外から来る人たちを受け入れて欲しい、と。
ターミナルtoターミナルで根こそぎ運ぶ計画には、そんな「ホスピタリティ」なんて全く見えない。
観客は荷物と同じ。意思を持つことなく、ただ運ばれるだけなのだ。
経済効果は?と尋ねられて、精神論が語られることの奇妙さ
経済効果は?という問いに対して、生涯スポーツの育成、では、国語では落第である。
いや、実はそうではない。そういう風に答えざるを得ない現状がそこにある。そんな馬鹿な論理が通用するとは思っていないが、言わざるを得ないのが現状だ。
根こそぎ運んで、じゃ、利府には何が残るのか。
チケットを買えなかった腹いせの乱暴行為か? 酔ったあげくの店舗破壊か?
突き詰めれば、利府には「正の部分」=利益は全く望めないのである。
だから、経済効果は?と尋ねられたら、宮城県全体のわけわからない効果を淡々と述べるだけである。無論、利府町がスケープゴートになって、なんて死んでも言えないのである。
宮城スタジアムという空港に仙台という空港から何機も飛行機が飛んでいく。
利府の住民は空を見上げて、「飛んでいるねぇ」などとのんきなことを言ってたら、飛行機からいろんなものが落ちてくるので、片づけたりしていると、偶にけがをしたりするだけなのだ。
「飛行機は利府空港には止まらないみたいね」と、ワールドカップが始まってから気づくのだ。
住民にとっての宮城県
宮城県という役所は、住民にとってはパスポート申請に行くくらいの、なじみのない役所であり、なんだかわからないが、ワールドカップという災害を持ってきて、その上、利府でやるから我慢しろ、とおっしゃる、空の上の存在なのだ。
当然、生活に密着しているのは利府町の役場であり、役場の人たちはいつも笑顔で迎えてくれる、おなじみだ。
ワールドカップという災害がどうもやってくるというのに、おなじみさんはほとんどわからない状態だった。何でも宮城県という偉い役所がおやりになるみたい。
「宮城県のおやりになることには、間違いはございますまい」
などと、言っても遅いのである。
だが、宮城県を批判するのは簡単であるが、ワールドカップ開催直前になっては、もはや遅い。
住民が住民としてどう考えどう行動するか、それが問われている。
利府からワールドカップ意識が離れていく問題は、ワールドカップ後のグランディ21利用の問題に直結するだけに、重い。
(以下、執筆中)