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グランディ21・宮城スタジアム問題を考える

2007/01/01 revised



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明けましておめでとうございます

いじめ、自殺、あそび、スポーツ
 いじめの問題は昔からあったので、個人的には驚きはしないのだが、自殺となるとこれはちょっと違うと思うわけ。
 子どもたちが自ら自分の命を絶つのは、たぶん大人の論理とは違うだろうと思う。私にも4人の子どもたちがいて、彼らが自分で自分の命を絶つとは、大人の論理ではわからない。少なくとも、父親は理解しがたい。
 大人がわからない子どもたちの自殺願望についてどう対処したらいいのか。これについて、いじめの問題を含めて2つのことから考えたい。
  1.  まず命の尊さの問題である。1人の命は地球より重い、ということが子どもたちにはわかってもらってないように思える。
     命の重さというものがどう理解できるか、このことを考えたときに、今の教育環境というか、教育の重要性というか、そういうものの関わりの低さを、大人の一人として、反省せざるを得ないのだ。
     たとえば、トンボや蛙に対して酷いことをした少年時代。加えて、自分より弱そうな猫や犬をからかったその頃は、逆に虫に刺されたり、かまれたり、おできができたり、足をおったり、たいそうなけがをしたり、と、“ばち”が当たったことがあった。
     “ばち”は身分、年齢などに関係なく、みんなに当たったわけだが、この根底には自然への畏敬の念や、崇拝の念があったというか、無理無理心の中に入り込んできた感じがある。“ばち”自身は、祖父や祖母が口癖のようにしていたわけで、“ばち”への恐れの裏腹として、いきがったり、生意気を言ったりしたわけで、言わば、大自然の中の小さな命として自分があった。
     命を最も大きく印象づけるのは、祖母や祖父あるいは親の死であり、身近であればあるほど、その衝撃は大きいものだ。ただ、その死への恐怖は昔よりも緩和されているのが明らかである。たとえば、病院などでの死、苦痛にゆがんだ顔は見ないで、多くは安らかに死んでいく。
     特に病院での死は、わざわざ病院に行かないと会えない、逆に言えば、会いたくないなら行かなくてもいいわけであるが、自宅での死はこれとは違い、否が応でも人間の死と直に向かい合わないといけない。
     最近、自宅での安らかな死について前向きに考える傾向が出てきたことは、この非日常の極みである、生と死に真摯に向き合うことになって、いいように思う。
     で、肝心の子どもたちは死をどうとらえるか。身近な者の死と同時に、それを嘆き悲しむ別の者の振る舞いに接し、死が多くの人を悲しませることになるのだ、と自然に理解するのではないか。
     その中での“ばち”の存在が、人間の運命を司っている(と子どもにとって理解しやすい)大自然のしっぺ返しとして、当たるわけであり、誤解を恐れずに言えば、“ばち”の存在こそが、命の重要性を真摯に理解できる最も簡潔な方法とも言える。
     ゲームや映画、ドラマの中に氾濫する死が子どもたちに良いわけはないのだが、それはそれで姿形を変えて、いつの時代にもあったことなのだ。ただ今の状況が違うのは、大人が殺し殺されることや戦争について、はっきりコメントしないことなのである。氾濫する死について、大人自身がどう思っているのか、子どもたちに見えない場合が多い。
     子どもと一緒にテレビをみたり、ニュースを聞いているときに、自分がどう思っているのか、はっきりと口にだした方がいいのだ。たとえば、祖母や祖父がよく口癖のように言っていた「戦争は、やだね〜」というような言葉は全く違う場面で子どもの心の中によみがえってくる。何で嫌なのか正確にはわからなくても、戦争とそれに関連する死についての考え方として子どもたちの心に根を生やす。
     結局、問題なのは命にかかわる教育から目を背けていた大人自身であり、“ばち”が当たることや、死に関するコメントを子どもたちに向けて積極的にすべきと思う。親と子どもが友達感覚になってきてしまうと、この辺のことが見逃される可能性が高い。
     また、教育環境も悪いのは確かだ。教師の問題ではなく、心にゆとりのない教師や大人たちは自然の中の命について子どもたちに諭す時間はなく、隣の家の頑固親父は絶滅種となり、三度の飯よりも他人の噂が好きな隣のおばさんですら、絶滅危惧種となっている。
     これまで述べてきたことは自殺問題だけではなく、いじめの問題にもかかわる。とことんいじめることの危険性とやるせなさをいまのいじめっ子は感じていない。いじめいじめられる攻守交代の時間的間隔が狭くなっているようだが、このことにも命への畏敬感の薄れがかかわっているように思える。
  2.  次に外遊びの減少である。外遊びが子どもにとって重要なのは体力のことだけではない。当然、精神的な発達にとって欠かすべからざることである。
     上述のトンボや蛙をおもちゃにするのは外で遊んでいるからであるが、この悪戯だけでなく、いろんな遊びが外遊びにはある。当然、一人で外遊び、というわけにはいかないので、子ども独特の社会の中で大人には?マークだらけのルールと暗黙の了解の中で、互いに干渉しながら外遊びをするわけである。
     このときに当然のことながら、いじめはつきものなので、いじめいじめられる関係とは没交渉の社会を子どもながらも選択するのである。
     いじめられっ子はこの世に生まれた瞬間からいじめられっ子になったわけではないので、外遊び仲間の一人や二人は、少なくともいじめられっ子になるまではいたはずなのである。いや、いじめられっ子になっても昔は結構いたのだが、昨今のいじめは上述の問題がかかわって、とことんいじめになってしまっているので、仲間はいないかもしれない。ただ、その場合でも少なくともいじめられっ子になるまでは、確かに仲間はいたはずである。
     外遊び仲間で外遊びをすると大抵の場合、器用不器用、人気不人気の2種類の子どもに色分けされるのであるが、ここが子どもの世界のまか不思議なところで、それらの分類分けをするにもかかわらず、結構仲良く遊んでいるのである。
     この摩訶不思議なルールこそが子どもの価値観であり、大人にはよくわからないものなのだ。いや、大人がわかってはダメなのである。また、このルールや価値観は構成する子どもたちによって頻繁に変わるのであり、それはいじめいじめられるという逆転とは根本的に違うはずであるが、最近のいじめいじめられるという逆転はこの外遊びのルールと価値観になっている気がする。
     外遊びで培ってきた摩訶不思議なルールや価値観の成立すべき時期や場所がなくなり、いじめいじめられる場で培われることとなったとすれば、これは恐ろしいことである。なぜなら、前者のルールや価値観は遊びでしかないが、後者は肉体的精神的苦痛や命の問題が直にかかわってくるのだ。
     子どもに外で遊びなさい、と邪魔扱いにされた昔は、本当に邪魔な場合もあっただろうが、親の明確な意思として子どもに伝わり、子どもは家庭から出て行って、子どもたちの社会に身を投じるのであった。
 このように考えてくると、幼児期あるいは小学生の年少期、外遊びがなく、かつ命の教育に触れていない子どもに、もう一度そのチャンスはないか、という話になる。
 スポーツこそがその答えだと私は思っている。
 スポーツのルールや価値観はそれぞれのスポーツ独特のものであるので、子どもたちの社会に似ているし、ゲーム終了後、ラグビーが「ノーサイド」とする話は命の問題にかかわっている。
 スポーツこそが子どもを救うのではないか、そんな風に思うのである。
2006/12/20執筆

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